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生きがいがなければ生きていけないのか––––実存的欲求不満とショーペンハウアー(末田圭果)

当塾で講師を務める末田圭果さんより、研究内容の紹介文を寄稿していただきました。

寄稿者

末田 圭果(講師)

Profile

大阪大学大学院文学研究科 修士課程修了。修士(文学)。ドイツ哲学、主にドイツ観念論を専門とする。現在は同大学院にて、生命倫理の諸問題、特に終末期のケア、死生学に関心を寄せ取り組んでいる。研究の傍ら、塾講師、高校教員として教鞭を取ってきた。

年来見つけられないものがある、あるいは見つけたと豪語できないものがある。それは「生きがい」だ。学部生の頃を含めると、相当長い時間研究に費やし、今となっては研究がライフワークと呼べるものになりつつある私が、このようにいうと奇異に映るだろうか。

表現を変えるなら、そもそも生きがいが何なのかが分からない、というべきか。

私たちが、日常何気ない会話で口にする生きがいという言葉について、神谷美恵子は『生きがいについて』(1966)で、心理学者の観点から詳細に検討し、まとめている。

そこでは、何が生きがいであり得るかは規定できないとしながら、生きがい一般についてその特徴が挙げられる。曰く、もし心のなかにすべてを圧倒するような、強い、いきいきとしたよろこびが「腹の底から」、すなわち存在の根底から湧きあがったとしたら、これこそ生きがい感の最もそぼくな形のものと考えてよかろう、と。

私にとって大きな問題は、この「よろこび」という感情である。もちろん私は感情のない最近流行りのサイコパスだと言いたいのではない。一般に「よろこび」と呼び習わされている何かが自分に生じることがあるのは事実だが、その「よろこび」の程度としての大小や、それが何に紐づいているのかがよく分からないし、「腹の底から」なんて言われると尚更だ。あるいは私が感じるよろこびが、世間で言うところの「よろこび」と一致していることを何が担保してくれるのだろうか。この疑問にぶつかると、これが私の生きがいです、などと軽々しく口にできなくなってしまう。生きがいを持たずに生きている人はいないのだろか、私たちは生きがいなしでは生きられないのだろうか。

神谷によれば、生きがいは日本語特有の言葉らしい。西洋の言葉には、生きがいに相当する言葉はなく、生きがいを訳すには「価値」や「意味」という異なる用語を引かなければならないらしい。いずれにしても価値や意味と言われれば、「よろこび」という感情に担保される生きがいという言葉よりは手近なものに感じる。ドイツに留学中に、ヴィクトール・フランクルのDas Leiden am Sinnlosen Leben(直訳するなら『意味なき生の苦しみ』、邦訳は『生きがい喪失の悩み』)を手に取った。フランクルはロゴテラピーという精神療法を開発した、著名な精神科医だ。ユダヤ人であった彼は、第二次大戦中に強制収容所で壮絶な体験をしながら生還した稀有な人でもある。彼が強制収容所での体験を、精神科医という観点から記した『夜と霧』はご存知の方も多いと思う。『生きがい喪失の悩み』曰く、私たちは意味を求めて成就することを目指している、そしてその意味への意志をどうしても満たせず、実存的欲求不満、つまり自らの実存の無意味さの感情に陥る場合があり、それは神経症疾患を引き起こし得る、と。しかし私たちの生きる時代は、余暇が増大する時代に生きており、そして何かからの余暇もあれば、何かへの余暇もある、この余暇を埋める方法を知らない人がいる、自分が何をすべきで、何をしたいのか知らない人がいる、と。

フランクルが診断するように、私は生きがいが何かわからない。ただ自分の生きがいは何かを明確に意識しながら生きている人がどれくらいいるだろうか。意味を求めつつ、それを見つけることができないままに、生きている人は存外多いのではないか。少し長くなったが、以上が私の研究にまつわるぼんやりとした問題意識であった。

さて私の研究テーマは、この生きがいがどのようなものかを、自分なりに規定することだ。神谷によれば、生きがいは「よろこび」をもたらすものだった。しかしこの「よろこび」が何かよく分からないから、この説明は納得できない。フランクルによれば、生きがいは自らの存在が持つ、あるいは見出し、実現する意味ということになるが、そもそもここで言う「意味(Sinn)」が何かよく分からない。独和大辞典によれば、Sinnというドイツ語は、「なんらかのものに内在する目標、目的、価値」らしい。つまり存在が持つ意味とは、各人の内側から生じた目標、あるいは目的ということになる。しかしこの説明でも納得はできない。というのも自分の内側から生じた欲求という意味では、あらゆる行為が自らから生じた目標、あるいは目的の実現であるが、それでは全ての行為が生きがいということになる。あるいは外的な要因が動機となることで、私たちに意欲が生じ行為をしているとするなら、あらゆる意欲は外的要因にもたらされることになり、私たちの内側から生じたものなどないことになる。これでは生きがいは実現しない。

この生きがいへの疑問に、ショーペンハウアー哲学を用いて応えようというのが今の私の関心だ。ショーペンハウアーは世界を、意志と表象(私たちに認識されているもの)という道具立てで説明する。誤解を恐れず単純化すれば、曰く、私たちは「生きんとする意志」であり、私たちのあらゆる行いは生存の維持と種族の繁殖を目指している、と。私はこのショーペンハウアーによる世界の記述はある程度、私たちの住む世界を正確に説明できていると考えている。少なくとも私には、私たちの行為が「よろこび」や「生きる意味」を目指しているという説明よりも、私たちのあらゆる行為は自分の生存の維持を目指している、という説明の方が理解しやすい。しかしショーペンハウアーによる世界の記述に従えば、私たちの行為はすべて生存の維持という目標に還元されてしまい、到底生きがいなどを問題にできなそうに思われる。

しかしショーペンハウアーは、生きんとする意志が沈静化する状態である「意志の否定」について言及している。完全な意志の否定は、仏教で言う涅槃の状態であり、ある種の究極状態であり、凡人には到達できない。そもそも意志の否定自体の解釈が難しいが、私の解釈によれば、意志の否定には程度概念が持ち込める。つまり一般人である私たちにも開かれた、生きんとする意志が少し弱められた状態としての意志の否定があり得る。もっともこれは人生の中で、幾多の苦悩を経験することで開かれる一つの可能性でしかいないが。いずれにしても、この時私たちは生存を離れて何かを意欲し得る。そして生存を離れて意欲される何かは、つまり生存を離れても尚意欲されている何かは、自らの内から生じた意欲と呼べるのではないか。

これが生きがいに関する私なりの解答である。私たちは生きがいなしに、直接であれ間接であれ生存を意欲しながら生きている。しかし人生のふとした時に、生存を意欲することに疲れ果てたその瞬間に、生存を離れて何かを意欲し得るのであり、それを生きがいと呼ぶことは納得できる。生きていくのに生きがいはいらない。生きがいは、ただ不断に生存を意欲し続ける中で、それはある種の僥倖として出会い得る何かであるに過ぎない。

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この記事を書いた人

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