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読んで、書いて、話して(1)──読むことと理解することの距離(三浦隼暉)

当塾で講師を務める三浦隼暉さんより、国語の勉強方法に関するコラムを寄稿していただきました。

寄稿者

三浦隼暉(講師)

Profile

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専修大学、桜美林大学非常勤講師。The Five Books などのサービスで一般向けに哲学書の解説講義を行なってもいる。主な研究テーマは、17世紀の哲学者G. W. ライプニッツの哲学で、当時の哲学と生命思想との関わりを探っている。主な論文に「後期ライプニッツの有機体論」(『ライプニッツ研究』第7回研究奨励賞受賞)や「経験からの要求と実体的紐帯」(『哲学雑誌』)などがある。

目次

本が読めないという衝撃

 中学生の頃、自分は国語が得意だと思っていた。テストの成績も悪くなかったし、先生に作文を褒められたこともあったので、そのように思い込んでいたのだ。思い込むことは大切で、得意だと思えば楽しくもなる。それだけ勉強を頑張るし、成績も上がる。そうして、私は幸福な循環を味わっていたのである。

 ところが、一冊の本との出会いが私の自信を打ち砕くこととなる。本を読むのが好きだった私は、近所のブックオフにしばしば足を運んでいた。「新書が読みやすいよ」と誰かに教えられて、いくらか読み漁っていたところで、丸山真男によって著された『日本の思想』という本に出会った。今でもまだ家の本棚に眠っていることを思い出して、この記事を書きながら、手元に持ってきてみた。十数年前に中古で買ったものにもかかわらず綺麗なままで、裏側には「¥350」と書かれた値札シールが貼られたままになっている。

 なぜこの本は綺麗なままなのか。答えは簡単で、あまり読んでいないからである。「少し難しい本を買っちゃった」くらいの気持ちで読み始めた当時の私は、冒頭の数ページを読み進めて、たちまちに冷や汗をかくことになる。今でも覚えているのだが、本当に焦ったのだ。目はたしかに文字を追っていて、読めない漢字も特にない。だが、意味がわからない。意味のわからない文章が次から次へと登場してきて、最終的に私はこの本を放り出してしまった。

 それまで、文字を読むことと、文章の意味を理解することの間には隔たりはないと思っていた。文字が読めれば意味もわかる。これを当然のことだと感じていたのだ。たしかに日常のなかで見かける多くの文字は、とくに何も考えずとも意味を理解できるし、そうでなければ困ってしまうだろう。だが、丸山真男の文章は、そんな私の常識に「ノン」を突きつけたのだった。

文字を超えて文字を理解すること

 今現在の私が改めて『日本の思想』を読んでみると、内容の分析はともかく、それなりに意味を理解することができる。当時のような冷や汗をかくこともない。例えば、冒頭近くの(中学生の私がこの辺りでつまずいたであろう)以下の文章なども「ふーん、なるほどねぇ」と余裕をもった心地で眺めることができる。

周知のように、宣長は日本の儒仏以前の「固有信仰」の思考と感覚を学問的に復元しようとしたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的な形にせよ、究極の絶対者というものは存在しない。和辻哲郎が分析しているように、日本神話においては祭られる神は同時に祭る神であるという性格をどこまで遡っても具えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる。

丸山真男『日本の思想』岩波書店, 1961, p. 20

 「人格神」「理」「形相」「絶対者」など日常生活ではほとんど聞くことない言葉が並んでいる。最近の私はすっかり哲学研究の世界に浸りきっているので、日々の読書の中でこれらの言葉に出会うことも珍しくはない。だが、当時の私は全くそうではなかった。もっと言えば、本居宣長や和辻哲郎などの名前もほとんど聞いたことがなかったし、「祭る」とか「祭られる」といった信仰に関する話題に触れる機会も皆無だったと思う。

 文字を読むことと、意味を理解することの間に隔たりがあるというのは、こうした事例からもよくわかるだろう。「人格神」を「じんかくしん」と声に出して(あるいは頭の中で音にして)読んでみることは、それほど難しいことではないだろう。だが、それだけでは文章の意味を理解することはできない。「人格神」という言葉に結び付けられる可能性がある、さまざまな他の言葉たち、例えば「自然神」や「意志」といった言葉を、「人格神」から想起する必要がある。著者が著作のうちで用いる言葉が、その著作内部で完結した意味をもつということはほとんどない。むしろ、その著作自体には書かれていない別の言葉たちとの連関のうちに置かれていることが多いのだ。そういった著作は、個々の著作の垣根を越えて張り巡らされた言葉の網のなかで意味を理解しなければ読み解けないのである。

 中学生の頃の私が『日本の思想』を読めずに挫折したのは、まさにこうした理由によるのだと思う。ほとんど聞いたことのない言葉や名前に翻弄され、それらの言葉がもつ意味のネットワークを掴みきれずに振り落とされてしまったのである。

意味を理解するために判断を下す

 もし現在の私が当時の自分にアドバイスをするとしたら、どのように声をかけるだろうか。そんなことを考えながら、懲りずに書い続けている新書を読んでいたら次のような文章に出会った。

いずれにせよ、他人が書いた文章を読むときには、その人がある語と別の語とをたとえば「同義語」のように理解しているのかどうかを、推測を交えてあなた自身が判定を下しながら読み解いていく作業が必要なわけです。

米山優『つながりの哲学的思考——自分の頭で考えるためのレッスン』筑摩書房, 2022, p. 55

 読むことは、与えられたものを受け取ること、受動的なことだと思われがちだ。だが、じつのところ書かれた文字と、その向こう側にある意味とを結びつけるのは、私たち自身の能動的な「判定」ないし判断である。さきほどの丸山真男の文章であれば、「人格神」や「形相」という言葉がどのようなネットワークのなかで用いられ、どのような重みを持たされているのか、読者自身がさまざまな可能性を比較したうえで決断を下さなければならない。

 こうした決断は文章に限ったことではない。ルネ・デカルトという哲学者が1641年に(初版を)出版した『省察』という著作の中で次のようなことを書いている(だいぶ脚色しているので、気になる人は「第二省察」の部分を確認してほしい)。街路に面した家のなかから窓を通して外を眺めている場面を思い浮かべてみよう。道を黒い影が通り過ぎていく。よくみれば、黒い帽子と外套をまとった何者かである。私たちはここで「ああ、人間か」と思うだろう。「だが」とデカルトは口を挟む。その帽子と外套の下は人間ではなくロボットかもしれないではないか、と。つまり、街路を移動する黒い帽子と外套の塊は人間に決まっているだろうという常識をもとに、私たちは推論し「それは人間である」と判断を下しているのである。

 文章を読むことも含め、何かを理解するということは、一定の判断の産物であるといえる。目の前に現れた黒い影は、本当はロボットなのかもしれない。だがそういった無数の可能性を一旦脇において、ひとつに絞ることで初めて理解を前に進めることができるのである。もちろん判断を誤ることもあるだろう。だが、文章相手ならいくらでも戻って読み直すことができる。

 文章に対して自ら判断を下さなければならないということは、自分のなかで判断のための準備をしておく必要があるということでもある。それまでのさまざまな経験、読んだり、書いたり、話したり、見たり、聞いたりしたことが、目の前の文章を読むための糧となるのだ。近道はないにせよ、テクニックはある。次回の記事では、読むためのテクニックをもう少し具体的に紹介するつもりである。

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この記事を書いた人

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