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問う人の繊細さに心を傾ける——総合的な探究の時間と問いの形(三浦隼暉)

当塾で講師を務める三浦隼暉さんより、探究学習に関するコラムを寄稿していただきました。

寄稿者

三浦隼暉(講師)

Profile

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専修大学、桜美林大学非常勤講師。The Five Books などのサービスで一般向けに哲学書の解説講義を行なってもいる。主な研究テーマは、17世紀の哲学者G. W. ライプニッツの哲学で、当時の哲学と生命思想との関わりを探っている。主な論文に「後期ライプニッツの有機体論」(『ライプニッツ研究』第7回研究奨励賞受賞)や「経験からの要求と実体的紐帯」(『哲学雑誌』)などがある。

ホコリタケの思い出

 私が小学生のころ、「総合的な学習の時間」という授業があった。おそらく今でもあるのだろう。時期によって活動はさまざまだったが、あるときグループごとにテーマを決めて調べた内容を大きな模造紙にまとめる、というお題が与えられた。私は、友人たちと学校近くの森でキノコを採取し、それらの種類や生態を調べ、キノコ標本として模造紙に貼り付けることにしたのであった。

 その日、私たちの教室にはテレビの取材が入ることになっていた。児童らの学習の様子を撮影して、あとで何かの番組に使ったのだろう。カメラがやって来たとき、私たちのグループは、「ホコリタケ」と呼ばれるとても面白いキノコを小さいジップロックに入れて、模造紙に貼り付けるところであった。ホコリタケは、頭のてっぺんに小さな穴があいていて、本体をつつくと、その穴から土埃のような胞子が飛び出す仕組みになっている愉快なキノコである。案の定、ジップロックの中はその名に恥じぬ「ホコリまみれ」の状態であった。そこにテレビ局のスタッフやカメラマンがやってきて、今でも覚えているのだが、恐ろしい一言を放ったのである。「この汚いキノコは何?」。

 放課後、「あの大人たちは何なんだ!?」と友人たちと憤りを分かち合ったのを覚えている。ホコリタケの入った小袋はたしかに茶色くなっていたし、そもそも美しいタイプのキノコではないのかもしれないが、それでも、それは立派に「ホコリまみれ」だった。決して「汚い」という言葉で表現されるべきものであるとは、私も友人たちも思っていなかった。もちろん、そのように見えたのは、自分たちでキノコを採取したという愛着ゆえだったのかもしれない。だが、大人たちの衝撃的な一言は、私にとって、自分たちで調べたり考えたりしたことを足蹴にされ憤りを感じた、初めての経験であった。

自分と不可分な問いを考える

 それから約20年後の2021年、私はとある高校の探究学習の現場に立ち会う機会を得ることになった。2022年度から、高等学校学習指導要領の改訂によって「総合的な探究の時間」という新たな科目が始まっている。それに先駆けて探究学習と同様の取り組みを行なっていた都内の高校にティーチング・アシスタントとして参与させてもらえることになったのである。

 私の仕事は、各生徒たちと面談して、テーマ決定の手伝いをするところから、問いや課題の形を整えたり、調べ方などをアドバイスしたり、最終的なレポートの添削をしたりと多岐にわたっていた。そのように生徒たちをみていると、問いや課題をうまく立てることができるかどうかが、探究学習にとって大きなウェイトを占めていることが分かる。こうした授業において「問い」は中心的な役割を果たすのである。じっさい、従来の「総合的な学習の時間」から新たに「総合的な探究の時間」へと科目が変更されるさいの重要なポイントのひとつに「問う人」と「問い」の関係がある。

総合的な学習の時間は、課題を解決することで自己の生き方を考えていく学びであるのに対して、総合的な探究の時間は、自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し、解決していくような学びを展開していく

『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説:総合的な探究の時間編』p. 8

「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」を発見して解決することこそが、探究学習における問い方であると示されている。こうした問いとの比較として、例えば、テレビのクイズ番組をみていて「バンコクの正式名称は何でしょう?」などと出題されているのを横目で眺めるときのことを思い浮かべればよいだろう。こうした問いは、その場限りでテレビを消したらオサラバできるような問いである。それに対して、いつまでも自分につきまとって離れない問いがあり、そうしたものが「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」と呼ばれているものだと考えることができる。

 だが、そのような問いはどのように見つけることができるのだろうか。これが正解なのかは分からないが、教室で必死に問いを考える生徒たちに対して、ティーチング・アシスタントとしての私は「日常のことを思い出してほしい」という言葉をかけていた。生きていれば色んな出来事に出会う。そのなかで、どうしても自分の人生から切り離すことができないような困難に出会うこともあるだろう。そこにこそ〈自己から切り離すことのできない問い〉の種がある。ある生徒は、どうして人は恐怖を感じてしまうのだろうか、という問いを立てていた。なぜその問いにしたのかを聞いてみると、大勢の前に立つと怖くてうまく話せなくなってしまう経験があったからだと答えてくれた。まさに本人の生き方と不可分な形で与えられた問いである。こうした問いは、現実に生きてみて、そのなかで避けようもなく直面してしまうものなのだろう。

問う人の繊細さ

 「問い」に心を傾ける人は繊細だ。それが自己から切り離せないような問いであるならば、なおさらである。小学校でホコリタケに向き合っていた私はとても繊細で、自分が採取したキノコや、調べたり考えたりしたことの全てを大切なものだと感じていた。現在の私も相変わらずで、哲学研究者として調べたり考えたりする日々を過ごすなかで生まれてきた言葉や成果に、愛着を抱いている(もちろん今では批判されることの大切さもよく承知しているし、誠実に受け入れる努力をしているが、それでも批判はいつだって苦しい)。

 「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」を考えるのが大切なのは、間違いないだろう。だが、それと同時に恐ろしいことでもある。河野哲也氏は、探究学習の目的について「探究は真正の学びでなければならず、社会から分離された単なる「教室での出来事」であってはなりません」(『『問う方法・考える方法:「探究型の学習」のために』第1章第4節)と述べていた。そうした「問い」を探究するなかで傷つくことがあれば、それもまた「教室での出来事」にとどまらないものとなる。それは、生徒の人生全体に関わるような問いかもしれないのである。

 探究学習に関わる全ての人が、問う人の繊細さに心を配る必要があるだろう。「問い」とは私たちを振り回すものであり、ときにこちらから自由に縁を切ることすら許されないものであったりする。自分にとっての問いの根が深ければ深いほど、問う人は逃れられずに繊細さを身に纏うことになる。教師やティーチング・アシスタントはもちろん、同級生たちでさえも、そのことは忘れてはならない。

参考文献

  • 河野哲也『問う方法・考える方法:「探究型の学習」のために』ちくまプリマー新書, 2021.
  • 文部科学省『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説:総合的な探究の時間編』, 2018. https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1407074.htm (2022年11月3日閲覧)
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この記事を書いた人

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