コラム– category –
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コラム
読んで、書いて、話して(1)──読むことと理解することの距離(三浦隼暉)
中学生の頃、自分は国語が得意だと思っていた。テストの成績も悪くなかったし、先生に作文を褒められたこともあったので、そのように思い込んでいたのだ。思い込むことは大切で、得意だと思えば楽しくもなる。それだけ勉強を頑張るし、成績も上がる。そうして、私は幸福な循環を味わっていたのである。 -
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問う人の繊細さに心を傾ける——総合的な探究の時間と問いの形(三浦隼暉)
私が小学生のころ、「総合的な学習の時間」という授業があった。おそらく今でもあるのだろう。時期によって活動はさまざまだったが、あるときグループごとにテーマを決めて調べた内容を大きな模造紙にまとめる、というお題が与えられた。私は、友人たちと学校近くの森でキノコを採取し、それらの種類や生態を調べ、キノコ標本として模造紙に貼り付けることにしたのであった。 -
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生きがいがなければ生きていけないのか––––実存的欲求不満とショーペンハウアー(末田圭果)
年来見つけられないものがある、あるいは見つけたと豪語できないものがある。それは「生きがい」だ。学部生の頃を含めると、相当長い時間研究に費やし、今となっては研究がライフワークと呼べるものになりつつある私が、このようにいうと奇異に映るだろうか。 表現を変えるなら、そもそも生きがいが何なのかが分からない、というべきか。 -
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「言葉にならない何か」からはじまる国語教育?──博士課程の院生室から(佐藤宗大)
むかし、まだ哲学史の院生だったころ。当時の先輩に誘われて、倫理学の勉強会に参加していた。英語文献の読書会で、ろくすっぽ質問もできないまま修論執筆を言い訳に幽霊化していったのだけれど、そういうのに限って本題と関係ないことばかりが頭に残っていたりする。 -
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国語教育研究の最先端から──「哲学×教育」の未来(佐藤宗大)
哲学もずいぶん愛想がいい学問になったなあ、と感じることが多くなった。「世間と隔絶しひたすら思索に耽る」なんてイメージはとっくに時代遅れだ。大都市では街角のカフェで哲学対話のイベントが開かれていたり、あるいは企業のコンサルタントに哲学が関わっていたりする、という噂を耳にする。あまりやりすぎると「若者をたぶらかした」と死刑を宣告される羽目になるが(数千年前のアテナイという街にそういう人がいた。名をソクラテスという)、哲学は社会とつながっているし、私たちの生活の中にしれっと存在している。そんな世の中になりつつある。
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