スタッフ紹介 アーカイブ - オンライン国語指導|アースリード http://aaas-lead.jp/category/blog/staff/ 現役研究者が教えるオンライン個別指導塾 Fri, 30 Dec 2022 21:41:07 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.7.2 https://aaas-lead.jp/wp-content/uploads/2022/05/cropped-favicon_c-32x32.png スタッフ紹介 アーカイブ - オンライン国語指導|アースリード http://aaas-lead.jp/category/blog/staff/ 32 32 生きがいがなければ生きていけないのか––––実存的欲求不満とショーペンハウアー(末田圭果) https://aaas-lead.jp/sueda_research/ https://aaas-lead.jp/sueda_research/#respond Mon, 21 Nov 2022 06:11:49 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1488

年来見つけられないものがある、あるいは見つけたと豪語できないものがある。それは「生きがい」だ。学部生の頃を含めると、相当長い時間研究に費やし、今となっては研究がライフワークと呼べるものになりつつある私が、このようにいうと奇異に映るだろうか。

表現を変えるなら、そもそも生きがいが何なのかが分からない、というべきか。

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当塾で講師を務める末田圭果さんより、研究内容の紹介文を寄稿していただきました。

寄稿者

末田 圭果(講師)

Profile

大阪大学大学院文学研究科 修士課程修了。修士(文学)。ドイツ哲学、主にドイツ観念論を専門とする。現在は同大学院にて、生命倫理の諸問題、特に終末期のケア、死生学に関心を寄せ取り組んでいる。研究の傍ら、塾講師、高校教員として教鞭を取ってきた。

年来見つけられないものがある、あるいは見つけたと豪語できないものがある。それは「生きがい」だ。学部生の頃を含めると、相当長い時間研究に費やし、今となっては研究がライフワークと呼べるものになりつつある私が、このようにいうと奇異に映るだろうか。

表現を変えるなら、そもそも生きがいが何なのかが分からない、というべきか。

私たちが、日常何気ない会話で口にする生きがいという言葉について、神谷美恵子は『生きがいについて』(1966)で、心理学者の観点から詳細に検討し、まとめている。

そこでは、何が生きがいであり得るかは規定できないとしながら、生きがい一般についてその特徴が挙げられる。曰く、もし心のなかにすべてを圧倒するような、強い、いきいきとしたよろこびが「腹の底から」、すなわち存在の根底から湧きあがったとしたら、これこそ生きがい感の最もそぼくな形のものと考えてよかろう、と。

私にとって大きな問題は、この「よろこび」という感情である。もちろん私は感情のない最近流行りのサイコパスだと言いたいのではない。一般に「よろこび」と呼び習わされている何かが自分に生じることがあるのは事実だが、その「よろこび」の程度としての大小や、それが何に紐づいているのかがよく分からないし、「腹の底から」なんて言われると尚更だ。あるいは私が感じるよろこびが、世間で言うところの「よろこび」と一致していることを何が担保してくれるのだろうか。この疑問にぶつかると、これが私の生きがいです、などと軽々しく口にできなくなってしまう。生きがいを持たずに生きている人はいないのだろか、私たちは生きがいなしでは生きられないのだろうか。

神谷によれば、生きがいは日本語特有の言葉らしい。西洋の言葉には、生きがいに相当する言葉はなく、生きがいを訳すには「価値」や「意味」という異なる用語を引かなければならないらしい。いずれにしても価値や意味と言われれば、「よろこび」という感情に担保される生きがいという言葉よりは手近なものに感じる。ドイツに留学中に、ヴィクトール・フランクルのDas Leiden am Sinnlosen Leben(直訳するなら『意味なき生の苦しみ』、邦訳は『生きがい喪失の悩み』)を手に取った。フランクルはロゴテラピーという精神療法を開発した、著名な精神科医だ。ユダヤ人であった彼は、第二次大戦中に強制収容所で壮絶な体験をしながら生還した稀有な人でもある。彼が強制収容所での体験を、精神科医という観点から記した『夜と霧』はご存知の方も多いと思う。『生きがい喪失の悩み』曰く、私たちは意味を求めて成就することを目指している、そしてその意味への意志をどうしても満たせず、実存的欲求不満、つまり自らの実存の無意味さの感情に陥る場合があり、それは神経症疾患を引き起こし得る、と。しかし私たちの生きる時代は、余暇が増大する時代に生きており、そして何かからの余暇もあれば、何かへの余暇もある、この余暇を埋める方法を知らない人がいる、自分が何をすべきで、何をしたいのか知らない人がいる、と。

フランクルが診断するように、私は生きがいが何かわからない。ただ自分の生きがいは何かを明確に意識しながら生きている人がどれくらいいるだろうか。意味を求めつつ、それを見つけることができないままに、生きている人は存外多いのではないか。少し長くなったが、以上が私の研究にまつわるぼんやりとした問題意識であった。

さて私の研究テーマは、この生きがいがどのようなものかを、自分なりに規定することだ。神谷によれば、生きがいは「よろこび」をもたらすものだった。しかしこの「よろこび」が何かよく分からないから、この説明は納得できない。フランクルによれば、生きがいは自らの存在が持つ、あるいは見出し、実現する意味ということになるが、そもそもここで言う「意味(Sinn)」が何かよく分からない。独和大辞典によれば、Sinnというドイツ語は、「なんらかのものに内在する目標、目的、価値」らしい。つまり存在が持つ意味とは、各人の内側から生じた目標、あるいは目的ということになる。しかしこの説明でも納得はできない。というのも自分の内側から生じた欲求という意味では、あらゆる行為が自らから生じた目標、あるいは目的の実現であるが、それでは全ての行為が生きがいということになる。あるいは外的な要因が動機となることで、私たちに意欲が生じ行為をしているとするなら、あらゆる意欲は外的要因にもたらされることになり、私たちの内側から生じたものなどないことになる。これでは生きがいは実現しない。

この生きがいへの疑問に、ショーペンハウアー哲学を用いて応えようというのが今の私の関心だ。ショーペンハウアーは世界を、意志と表象(私たちに認識されているもの)という道具立てで説明する。誤解を恐れず単純化すれば、曰く、私たちは「生きんとする意志」であり、私たちのあらゆる行いは生存の維持と種族の繁殖を目指している、と。私はこのショーペンハウアーによる世界の記述はある程度、私たちの住む世界を正確に説明できていると考えている。少なくとも私には、私たちの行為が「よろこび」や「生きる意味」を目指しているという説明よりも、私たちのあらゆる行為は自分の生存の維持を目指している、という説明の方が理解しやすい。しかしショーペンハウアーによる世界の記述に従えば、私たちの行為はすべて生存の維持という目標に還元されてしまい、到底生きがいなどを問題にできなそうに思われる。

しかしショーペンハウアーは、生きんとする意志が沈静化する状態である「意志の否定」について言及している。完全な意志の否定は、仏教で言う涅槃の状態であり、ある種の究極状態であり、凡人には到達できない。そもそも意志の否定自体の解釈が難しいが、私の解釈によれば、意志の否定には程度概念が持ち込める。つまり一般人である私たちにも開かれた、生きんとする意志が少し弱められた状態としての意志の否定があり得る。もっともこれは人生の中で、幾多の苦悩を経験することで開かれる一つの可能性でしかいないが。いずれにしても、この時私たちは生存を離れて何かを意欲し得る。そして生存を離れて意欲される何かは、つまり生存を離れても尚意欲されている何かは、自らの内から生じた意欲と呼べるのではないか。

これが生きがいに関する私なりの解答である。私たちは生きがいなしに、直接であれ間接であれ生存を意欲しながら生きている。しかし人生のふとした時に、生存を意欲することに疲れ果てたその瞬間に、生存を離れて何かを意欲し得るのであり、それを生きがいと呼ぶことは納得できる。生きていくのに生きがいはいらない。生きがいは、ただ不断に生存を意欲し続ける中で、それはある種の僥倖として出会い得る何かであるに過ぎない。

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「言葉にならない何か」からはじまる国語教育?──博士課程の院生室から(佐藤宗大) https://aaas-lead.jp/sato20221026/ https://aaas-lead.jp/sato20221026/#respond Wed, 26 Oct 2022 04:34:49 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1479

むかし、まだ哲学史の院生だったころ。当時の先輩に誘われて、倫理学の勉強会に参加していた。英語文献の読書会で、ろくすっぽ質問もできないまま修論執筆を言い訳に幽霊化していったのだけれど、そういうのに限って本題と関係ないことばかりが頭に残っていたりする。

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当塾で講師兼アドバイザーを務める佐藤宗大さんより、研究内容の紹介文を寄稿していただきました。

寄稿者

佐藤 宗大(アドバイザー)

Profile

京都大学大学院文学研究科西洋哲学史専修修了。修士(文学)。「哲学を社会の力に」との思いから、教育系ベンチャーに就職ののち独立し、個人事務所OFFICE Kを設立。国語を中心に、多くの生徒を志望校へと導く。現在は「哲学×国語教育」をテーマに、日本有数の教育研究拠点である広島大学で研究活動中。アースリードの指導方法に対して、専門的見地から助言を行う。

 むかし、まだ哲学史の院生だったころ。当時の先輩に誘われて、倫理学の勉強会に参加していた。英語文献の読書会で、ろくすっぽ質問もできないまま修論執筆を言い訳に幽霊化していったのだけれど、そういうのに限って本題と関係ないことばかりが頭に残っていたりする。

 ある日の研究会の雑談で、海外の大御所の話がネタになった。その先生は(検閲削除)で、その現場を見られてのたまったことには、「自分が倫理の外に立たなければ、倫理について考えることなんてできはしない」、と。

当然こんな与太話は半分以上フィクションだとは思うが(そうでなければたまったものではない)、この大御所の言葉が、妙に自分の中で残り続けている。とっさの一言にしては、ずいぶんと本質をついているように感じるからだ。

 国語といえば「言葉」に関する学習をするものだ、ということを疑う人は誰もいないだろう。『小学校学習指導要領(平成29年告示)』にも、国語化の目標は「言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を……育成することを目指す」(文部科学省 2018 p.28)ことだとバッチリ書いてある。だから私たちは国語の時間で漢字を習い、文章を書き、話し合いの仕方を学び、そしていろいろな文章を読む。

私の専門である国語教育(学)が対象にするのは、この「言葉」の学びとはどのようなものでありうるのかということだ。国語の時間でどのようなことが扱われなくてはならないか、そしてそれをどのように「面白く」授業にするか。いま国語教育(学)は、「言葉」の学びのあり方そのもの、いやそもそも「言葉」とは何かを問い直す局面に立っているとも言える。たとえば、近年では国語科で扱うべき知識・技能として、「情報の扱い方」に関する事項が増えた。そのため、グラフなどはもちろん、動画コンテンツなども当然のように国語の授業の素材となっている。文字で書かれたものを読み書きすることをベースにしていては、もう国語の授業なんてできない時代なのだ。

そうなったときに、自分には、例の大御所の言葉がふと思い出されるのだ。

国語教育について考えようとするのなら、私(たち)は「言葉」の外に立たなければならないのではないか?しかし、立てているんだろうか?そもそも、「言葉」の「外」ってなんなんだ??

国語教育学というのは、学問としてまだまだ若い。出発点をどこにするかにはいろいろな議論があるけれど、たとえば、哲学とか数学とか、そうした「老舗」に比べたらつい最近できたようなものと言っていい。だから、自分たちが問題だと思ったり課題だと感じたことを、さまざまな理論や言葉、そして「先生」としての実感から出た言葉などを柔軟に用いながら表現してきた。

柔軟というと聞こえはいいが、そこに学問としての国語教育学をめぐる深刻な問題がある(んじゃないかなあとぼんやり思っている)。

国語教育では、自分たちが考えようとする問題を記述するために、関連する学問領域の言葉や枠組みを参照するということがよくある。たとえば、文学研究理論だとか言語学とか、「言葉」に関わる学問である。しかし、どうしたって本職は国語教育だから、文学研究なり言語学なりが精密に分かるとも限らない。あくまで描きたいのは目の前の国語教育の問題だから、よその議論が結果的に「道具」として位置づきやすいことも事実である。そして、「国語」なんだから自分たちが問題にしているのは具体的な「言葉」の仕組みや性質だろうという意識も根強い。

と、なるとである。国語教育は、具体的な「言葉」の仕組みや性質を問題にしようとする意識に基づいて、「言葉」に関わる議論を形式的に援用しているんじゃないかという可能性が出てくる。そのとき、国語教育は結果的には「言葉」の内側にとどまっているのではないだろうか?もしそうだとしたら、私たちは「国語」の授業について考えていたとしても、「国語教育」について考えられているんだろうか……そんな残酷なことを思ってしまう。

もちろん、議論している当人にはそんなつもりはないだろうし、私自身含め、みんな「国語教育」について考えようとしているのは間違いない。ただ、人は「言葉」に左右されるから、いつの間にか借りてきた「言葉」に表現しようとしたメッセージが乗っ取られるということもあるだろう。それに、生きて動く教育や子どもの問題を描くのに、「外」に出て眺めるなどという悠長なことをしていられないのも事実だ。「言葉」の教育である国語教育にとって、「言葉」の「外」に立つというのはいろいろな意味で難しいのである。

 カント哲学という「外」の世界からやってきた私だから見えてくるものもあるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、日々研究を続けている。

国語教育がずっと扱ってきていながらなかなか扱いに困っているものに、「言葉にならない何か」がある。文学作品を読むというような状況に限らず、普段の生活でさえ、「うまく言えない」というような体験はよくあるだろう。そういった場面のいくつかは、表現能力とか語彙とかのレベルアップでカバーできるかもしれない。でも、表現能力や語彙を伸ばしていけば、どんなことでも言語化できるんだろうか?そもそも、「言葉」の学びとは、「言葉にならない何か」を「言葉」に表しきるということなんだろうか?

「言葉」とは本性的に「ボキャ貧」なのだ、と私は思っている。だからこそ「言葉」になったものを受け取るためには、その背後にある「伝えようとしたこと」をも捉えようとしなければならない。また、「言葉」の能力や知識を上げていったとて、全ての「言葉」が理解できるわけでもないし、全てを「言葉」で表現しきれるわけでもない。それはかえって、「言葉」によって伝えようとするものを、「言葉」で伝えきれる範囲に押しとどめてしまいかねない。

だから、「言葉」の学びには、「言葉にならない何か」が必要なのだ。そして、それを「言葉」にしようとするのではなく、むしろ「言葉」にできないということを積極的に受け止めていかなくてはならない。しかし、「言葉」の学びに「言葉にならない何か」を位置付けるというのは実に矛盾した課題でもある。少なくとも、国語教育の内部には、それを描ききるだけの「言葉」は十分に存在しない。

そこで哲学の登場である。哲学の話法というのは、言われたこと・書かれたことをデコードするのにやや手間がかかるが(1フレーズごとに重めのZIPファイルが仕込まれているようなもんだろうか)、「言葉にならない何か」を扱うことには向いているなあと感じる。たとえば、カントの「物自体(Ding an sich)」概念は、私たちの経験の向こうにある「何か」を記述する一つの方法だとも言える。この哲学の話法や視点を、国語教育の問題圏と接続できないか。それが私の今の研究である。

ただ、当然ながら、哲学と国語教育とでは「言葉」も学問の作法も違う。哲学のやり方で論じれば通じるというものでもないし、国語教育の流儀で研究活動をする中で「これでいいのか?」と慣れなさを感じることもある。しかし、それがうまく結合できなければ、自分の研究にとっても国語教育にとっても意味はないんだろうなとも感じる。先日、千葉で行われた全国学会で、はじめて小学校での授業実践を報告するタイプの発表を行った。これまではカントをベースに理論寄りの話をすることが多かったから、カントなしで実際の授業や子どもたちのことを話すなんて……と準備しながら不安の大きい学会だった。しかし、結果的には現職の先生や現場経験のある研究者の方から質問や好意的な意見をたくさんいただけて、少しは自分のなすべきことに近づいてこれただろうか、なんて思っている。

「外」から眺めつつ、しっかりと「中」にある切実な問題とも接続していく。そんな研究者にいつかなれたらいいいなと思いつつ、博士論文の執筆がなかなか進まない今日この頃である。

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マネージャー挨拶 https://aaas-lead.jp/post-275/ https://aaas-lead.jp/post-275/#respond Thu, 14 Jul 2022 15:44:08 +0000 https://hp.aaas-lead.jp/?p=275

自己紹介・経歴 オンライン国語指導アースリード・マネージャーの加藤将大です。 改めて私の経歴を説明させていただきます。 中学受験で洛南高附属中に入学後、洛南高校を経て京都大学経済学部に入学。 同学部を卒業後、金融機関での […]

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自己紹介・経歴

オンライン国語指導アースリード・マネージャーの加藤将大です。

改めて私の経歴を説明させていただきます。

中学受験で洛南高附属中に入学後、洛南高校を経て京都大学経済学部に入学。

同学部を卒業後、金融機関での勤務を経て予備校で国語の講師として勤務。

その後、管理部門での勤務を経た後に、元代表の五十嵐と共同でオンライン国語指導アースリードを設立いたしました。

私と教育との出会いは、小学生の頃まで遡ります。

初めての指導経験は、同じクラスの友人への質問対応。

そこで教えることの楽しさに気づき、大学入学後にアルバイトとして講師をしていました。

金融機関から予備校への転職は、その時のやりがいを忘れられなかったのが理由でした。

アースリード設立の動機

そんな私が、どうしてアースリードを設立したのか。簡単に言ってしまいます。

「もっと生徒にとって価値のある授業を提供できるんじゃないの?」という思いが強まったから。これが理由です。

成績を上げる、志望校に受かる、できるようにする。これは教育サービスを提供するものとして当たり前の価値です。

でも、本当にそれだけでいいのだろうか。

なぜ、成績を上げたいのか、志望校に受かりたいのか、できるようになりたいのか。

それは受講生が今持っている目標を達成したいから。

けれども、人生はその目標を達成すれば終わりではありません。志望校に入った後も人生は続きます。むしろ、その後の人生のほうが長く続いていきます。

受講生にとって、志望校合格という価値は果たして十分なのでしょうか。

その先の人生でも「あぁ、あの時受講していてよかった」と思えるようなことができるんじゃないか。むしろ、そこにこそ教育の本当の価値があるのではないか。ならば、できる限りその価値に応えられるような授業を提供したい、していきたい。

そんな思いから、アースリードを設立しました。

どうして現代文・小論文専門なのか

アースリードは現代文・小論文専門の塾です。

これまで受験科目の中で、現代文・小論文はどちらかといえば日陰の存在でした。

理系の受験科目ではなかなか採用されず、文系であっても英語の方が優先順位が高め。

現代文や小論文は、どう勉強していいかわからない。どうせセンスなんでしょ。

だったら他の科目をした方が効率がいい。これが定説でした。

そんな中、昨今「考える力」の注目度が増してきました。では、「考える」とはそもそもなんでしょうか?

ロジカルシンキング?論理力?確かにこういった力は考える時に非常に有効です。ですが、こういったものはあくまでツールです。考えることそのものではないのです。では考えるとは何なのか。

私は考えることを「言葉にすること」だと思っています。

「考える力」には様々な要素があります。先ほどの「ロジカルシンキング」や「論理力」はその最たる例です。ですが、ちょっと待ってください。私たちが考える時に絶対使っているものがあります。それが言葉です。

私たちは、言葉なしに考えることはできませんし、またそれを伝えることもできません。なんとなく思っていること、ぼんやりした思考のあと。そういったものは「言葉」という形を得ることで実際に考えたり、相手に伝えたりすることができるものになります。つまり、「考える力」は「言葉にすることができる力」と言い換えるできます。

では、その力を一番鍛えられるのは何か。私は、現代文・小論文以外にないと思っています。現代文・小論文は、他者の言葉を読み、それをできるだけ正しく理解し、自分の言葉でできるだけ正しく表現する科目です。これは「考える」上で必須の要素です。

だからこそ、そういった力をつけるのに最適なのは、まさに現代文・小論文なのです。

だからこそ、私は今後現代文や小論文のニーズも提供サービス数も増えていくと思っています。そうなった時に起こるのは、「本当にいいサービスが何かわからない」という現象です。どのサービスも最もらしいことを謳います。どのサービスも実績を出して、成果が出ることを強調します。その結果、受講生はどのサービスが本当に価値のあるものなのか、分かりにくくなってしまいます。それはある意味仕方ないことなのかもしれません。

でも、だからこそ、私は本当に価値のあるものを提供したい。そしてできると信じています。せっかくのご縁で出会った方々に本物の考える力をつけていただきたい。日々「言葉にすること」に向き合っている研究者に接し、本物の考える力が何かを体感し、それを少しでも自分のものにしていただきたい。本物に触れていただきたい。

だからこそ私は、私たちアースリードは、現代文・小論文専門なのです。

本物はそうたくさん提供できません。他の科目をしないことで出会えないご縁もあるでしょう。でも、本当に価値のあることを提供するには取捨選択は必須です。できることだけをやる。本当に価値のあるものを提供できるものだけ提供する。そう思うからこその現代文・小論文専門ですし、その姿勢は今後続けていこうと思っています

研究者だからこそできることがあります

私たちアースリードの授業は全て「哲学」の現役の研究者が講師を務めています。そこにこだわりを持っています。ではなぜ研究者にそれだけこだわりを持っているのか、その話もさせていただければと思います。

誤解を恐れないでお伝えすると、哲学の研究者が普段していることは、文献を読みそれを踏まえて考え、それを論文などに表現することです。このプロセスは、まさに考えることそのものです。実際に「言葉にすること」と日々真正面から向き合っている人たちなのです。

私は、その意味で、哲学の研究者はまさに現代文・小論文の専門家と言えると思っています。現役の研究者は、日々向き合っている分、考える力そのものも高いレベルにあり、かつ日々それを高めているとも言えるのです。そういった方々からの授業を受けられるというのは、本当に贅沢なことではないでしょうか。

しかし、哲学をはじめとした人文系の研究者は、その価値を正当に評価されていないとも言えます。文系科目への予算の縮小もあります。人文系の院に進んでも就職先が見つからないという問題もあります。私は、それは社会がそういった研究者の価値に気づけていないからだと思うのです。何かについて探究を深めていく。その作業は文系であろうが理系であろうが同じだと思っています。その結果得られた力にも差異はないと思っています。そういった力は文系であってももっと評価されて然るべきではないでしょうか。

だからこそ、私は研究者にこだわりたいのです。少しでも多くの人に、研究者の価値を知っていただきたいのです。研究者は、職人と同じだと思っています。職人の確かな力、技術は人を圧倒します。そういった経験を少しでも多くの人に経験していただきたい。私は本当にそう思っています。

終わりに

少しでも、現代文・小論文に悩みのある方はぜひ無料体験授業を受けてみてください。

本物の力を磨いていきませんか?本物の力に触れてみませんか?

受験生でなくても大丈夫です。社会人の方や中学生の方も含め、少しでも力を磨きたいと思ったらぜひご連絡ください。

そんな皆様のお役にきっと立てるはずです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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