勉強法 アーカイブ - オンライン国語指導|アースリード http://aaas-lead.jp/category/blog/method/ 現役研究者が教えるオンライン個別指導塾 Fri, 30 Dec 2022 21:51:41 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.7 https://aaas-lead.jp/wp-content/uploads/2022/05/cropped-favicon_c-32x32.png 勉強法 アーカイブ - オンライン国語指導|アースリード http://aaas-lead.jp/category/blog/method/ 32 32 読んで、書いて、話して(1)──読むことと理解することの距離(三浦隼暉) https://aaas-lead.jp/miura1229/ https://aaas-lead.jp/miura1229/#respond Fri, 30 Dec 2022 21:30:01 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1543

中学生の頃、自分は国語が得意だと思っていた。テストの成績も悪くなかったし、先生に作文を褒められたこともあったので、そのように思い込んでいたのだ。思い込むことは大切で、得意だと思えば楽しくもなる。それだけ勉強を頑張るし、成績も上がる。そうして、私は幸福な循環を味わっていたのである。

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当塾で講師を務める三浦隼暉さんより、国語の勉強方法に関するコラムを寄稿していただきました。

寄稿者

三浦隼暉(講師)

Profile

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専修大学、桜美林大学非常勤講師。The Five Books などのサービスで一般向けに哲学書の解説講義を行なってもいる。主な研究テーマは、17世紀の哲学者G. W. ライプニッツの哲学で、当時の哲学と生命思想との関わりを探っている。主な論文に「後期ライプニッツの有機体論」(『ライプニッツ研究』第7回研究奨励賞受賞)や「経験からの要求と実体的紐帯」(『哲学雑誌』)などがある。

本が読めないという衝撃

 中学生の頃、自分は国語が得意だと思っていた。テストの成績も悪くなかったし、先生に作文を褒められたこともあったので、そのように思い込んでいたのだ。思い込むことは大切で、得意だと思えば楽しくもなる。それだけ勉強を頑張るし、成績も上がる。そうして、私は幸福な循環を味わっていたのである。

 ところが、一冊の本との出会いが私の自信を打ち砕くこととなる。本を読むのが好きだった私は、近所のブックオフにしばしば足を運んでいた。「新書が読みやすいよ」と誰かに教えられて、いくらか読み漁っていたところで、丸山真男によって著された『日本の思想』という本に出会った。今でもまだ家の本棚に眠っていることを思い出して、この記事を書きながら、手元に持ってきてみた。十数年前に中古で買ったものにもかかわらず綺麗なままで、裏側には「¥350」と書かれた値札シールが貼られたままになっている。

 なぜこの本は綺麗なままなのか。答えは簡単で、あまり読んでいないからである。「少し難しい本を買っちゃった」くらいの気持ちで読み始めた当時の私は、冒頭の数ページを読み進めて、たちまちに冷や汗をかくことになる。今でも覚えているのだが、本当に焦ったのだ。目はたしかに文字を追っていて、読めない漢字も特にない。だが、意味がわからない。意味のわからない文章が次から次へと登場してきて、最終的に私はこの本を放り出してしまった。

 それまで、文字を読むことと、文章の意味を理解することの間には隔たりはないと思っていた。文字が読めれば意味もわかる。これを当然のことだと感じていたのだ。たしかに日常のなかで見かける多くの文字は、とくに何も考えずとも意味を理解できるし、そうでなければ困ってしまうだろう。だが、丸山真男の文章は、そんな私の常識に「ノン」を突きつけたのだった。

文字を超えて文字を理解すること

 今現在の私が改めて『日本の思想』を読んでみると、内容の分析はともかく、それなりに意味を理解することができる。当時のような冷や汗をかくこともない。例えば、冒頭近くの(中学生の私がこの辺りでつまずいたであろう)以下の文章なども「ふーん、なるほどねぇ」と余裕をもった心地で眺めることができる。

周知のように、宣長は日本の儒仏以前の「固有信仰」の思考と感覚を学問的に復元しようとしたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的な形にせよ、究極の絶対者というものは存在しない。和辻哲郎が分析しているように、日本神話においては祭られる神は同時に祭る神であるという性格をどこまで遡っても具えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる。

丸山真男『日本の思想』岩波書店, 1961, p. 20

 「人格神」「理」「形相」「絶対者」など日常生活ではほとんど聞くことない言葉が並んでいる。最近の私はすっかり哲学研究の世界に浸りきっているので、日々の読書の中でこれらの言葉に出会うことも珍しくはない。だが、当時の私は全くそうではなかった。もっと言えば、本居宣長や和辻哲郎などの名前もほとんど聞いたことがなかったし、「祭る」とか「祭られる」といった信仰に関する話題に触れる機会も皆無だったと思う。

 文字を読むことと、意味を理解することの間に隔たりがあるというのは、こうした事例からもよくわかるだろう。「人格神」を「じんかくしん」と声に出して(あるいは頭の中で音にして)読んでみることは、それほど難しいことではないだろう。だが、それだけでは文章の意味を理解することはできない。「人格神」という言葉に結び付けられる可能性がある、さまざまな他の言葉たち、例えば「自然神」や「意志」といった言葉を、「人格神」から想起する必要がある。著者が著作のうちで用いる言葉が、その著作内部で完結した意味をもつということはほとんどない。むしろ、その著作自体には書かれていない別の言葉たちとの連関のうちに置かれていることが多いのだ。そういった著作は、個々の著作の垣根を越えて張り巡らされた言葉の網のなかで意味を理解しなければ読み解けないのである。

 中学生の頃の私が『日本の思想』を読めずに挫折したのは、まさにこうした理由によるのだと思う。ほとんど聞いたことのない言葉や名前に翻弄され、それらの言葉がもつ意味のネットワークを掴みきれずに振り落とされてしまったのである。

意味を理解するために判断を下す

 もし現在の私が当時の自分にアドバイスをするとしたら、どのように声をかけるだろうか。そんなことを考えながら、懲りずに書い続けている新書を読んでいたら次のような文章に出会った。

いずれにせよ、他人が書いた文章を読むときには、その人がある語と別の語とをたとえば「同義語」のように理解しているのかどうかを、推測を交えてあなた自身が判定を下しながら読み解いていく作業が必要なわけです。

米山優『つながりの哲学的思考——自分の頭で考えるためのレッスン』筑摩書房, 2022, p. 55

 読むことは、与えられたものを受け取ること、受動的なことだと思われがちだ。だが、じつのところ書かれた文字と、その向こう側にある意味とを結びつけるのは、私たち自身の能動的な「判定」ないし判断である。さきほどの丸山真男の文章であれば、「人格神」や「形相」という言葉がどのようなネットワークのなかで用いられ、どのような重みを持たされているのか、読者自身がさまざまな可能性を比較したうえで決断を下さなければならない。

 こうした決断は文章に限ったことではない。ルネ・デカルトという哲学者が1641年に(初版を)出版した『省察』という著作の中で次のようなことを書いている(だいぶ脚色しているので、気になる人は「第二省察」の部分を確認してほしい)。街路に面した家のなかから窓を通して外を眺めている場面を思い浮かべてみよう。道を黒い影が通り過ぎていく。よくみれば、黒い帽子と外套をまとった何者かである。私たちはここで「ああ、人間か」と思うだろう。「だが」とデカルトは口を挟む。その帽子と外套の下は人間ではなくロボットかもしれないではないか、と。つまり、街路を移動する黒い帽子と外套の塊は人間に決まっているだろうという常識をもとに、私たちは推論し「それは人間である」と判断を下しているのである。

 文章を読むことも含め、何かを理解するということは、一定の判断の産物であるといえる。目の前に現れた黒い影は、本当はロボットなのかもしれない。だがそういった無数の可能性を一旦脇において、ひとつに絞ることで初めて理解を前に進めることができるのである。もちろん判断を誤ることもあるだろう。だが、文章相手ならいくらでも戻って読み直すことができる。

 文章に対して自ら判断を下さなければならないということは、自分のなかで判断のための準備をしておく必要があるということでもある。それまでのさまざまな経験、読んだり、書いたり、話したり、見たり、聞いたりしたことが、目の前の文章を読むための糧となるのだ。近道はないにせよ、テクニックはある。次回の記事では、読むためのテクニックをもう少し具体的に紹介するつもりである。

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国語教育研究の最先端から──「哲学×教育」の未来(佐藤宗大) https://aaas-lead.jp/post-835/ https://aaas-lead.jp/post-835/#respond Fri, 15 Jul 2022 05:24:00 +0000 http://hp.aaas-lead.jp/?p=835

哲学もずいぶん愛想がいい学問になったなあ、と感じることが多くなった。「世間と隔絶しひたすら思索に耽る」なんてイメージはとっくに時代遅れだ。大都市では街角のカフェで哲学対話のイベントが開かれていたり、あるいは企業のコンサルタントに哲学が関わっていたりする、という噂を耳にする。あまりやりすぎると「若者をたぶらかした」と死刑を宣告される羽目になるが(数千年前のアテナイという街にそういう人がいた。名をソクラテスという)、哲学は社会とつながっているし、私たちの生活の中にしれっと存在している。そんな世の中になりつつある。

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当塾で講師兼アドバイザーを務める佐藤宗大さんより、国語教育についてのコラムを寄稿していただきました。本コラムでは、哲学と国語教育の未来について、専門家の立場から考察していただいています。

寄稿者

佐藤 宗大(アドバイザー)

Profile

京都大学大学院文学研究科西洋哲学史専修修了。修士(文学)。「哲学を社会の力に」との思いから、教育系ベンチャーに就職ののち独立し、個人事務所OFFICE Kを設立。国語を中心に、多くの生徒を志望校へと導く。現在は「哲学×国語教育」をテーマに、日本有数の教育研究拠点である広島大学で研究活動中。アースリードの指導方法に対して、専門的見地から助言を行う。

哲学と教育との深い関係

哲学もずいぶん愛想がいい学問になったなあ、と感じることが多くなった。「世間と隔絶しひたすら思索に耽る」なんてイメージはとっくに時代遅れだ。大都市では街角のカフェで哲学対話のイベントが開かれていたり、あるいは企業のコンサルタントに哲学が関わっていたりする、という噂を耳にする。あまりやりすぎると「若者をたぶらかした」と死刑を宣告される羽目になるが(数千年前のアテナイという街にそういう人がいた。名をソクラテスという)、哲学は社会とつながっているし、私たちの生活の中にしれっと存在している。そんな世の中になりつつある。

そうした哲学と社会とのつながりの一つが「教育」だ。そもそも元をたどれば、教育と哲学とは兄弟のようなものだった。むしろ私などは、哲学が目指す世界や社会を具体的に実現していこうとする営みの一つが教育なのだ、と考えている。証拠というわけではないが、哲学者の中には、教育の方面でもその名がよく知られている人が何人もいる。たとえば、ルソーの『エミール』といえば教育学の古典中の古典だし、プラグマティズムの巨人デューイは、アメリカの教育学理論や、その影響を強く受けている日本の戦後教育を考える上で避けては通れない存在だ。こういうわけで、哲学と教育とは、学問レベルですでに密接な関わりがある。

哲学と教育とのビミョーな関係

とはいえ、哲学と教育とは同じではない(当たり前だ)。このへんは「学的アイデンティティ」とか「学問のアクチュアリティ」とか、いろいろ根深いというかめんどくさいというか、要はこの紙幅では触れられない問題があるのだが、まあそれはいい。シンプルに両者の関係について一番ネックなのは、それぞれが対象としている人間モデルの違いだ。

どういうことか。哲学が議論の対象にしているものは、それが「主体」であれ「社会」であれ「芸術」であれ、無意識に「大人」の世界であることが多い。しかし、教育(学)が取り組んでいるのは「子ども」の成長である(もちろん高等教育とか成人教育とかもあるが、それはとりあえず置いておく)。またまた当たり前の話だが、「大人」と「子ども」とは違う。したがって、「大人」の理性をベースにした哲学の理論や発想を、「子ども」の成長や発達に関してそのまま当てはめるわけにはいかない。乱暴に言えば、ここが哲学と教育(学)との分岐点である。先ほど名前の上がったルソーやデューイは、そもそもの関心に「子ども」が含まれていればこそ、教育(学)でも重要な役割を果たしている、と言えるのかもしれない。

つまり、「大人」の世界に哲学を売り込むことほど、教育に哲学をつなげていくことは簡単ではない。いや、「大人」が本当に哲学の想定するような「大人」なのか?と疑ってみると、実は「大人」たちにすら、哲学をつなげていくのは容易ではないのかもしれない。となると、ますます哲学は教育と手を携えていなかければいけない。ここで話は出発点に戻る。

さてさて、どうしたらいいのだろうか?

哲学と教育とのこれからの関係(?)

哲学と教育とを結びつける方法は、今のところ大きく2つある。

まずひとつは、哲学自体を教育すること。つまりは「哲学教育」である。最近は日本でも「子どものための哲学(Philosophy for Children, 通称P4C)」に関する研究や実践事例が増えてきており、Eテレでも研究者の監修のもと、「Q 〜こどものための哲学」という番組が制作されたりしている。すごい時代になったもんだ。

それからもうひとつは、教育という営みに哲学がパートナーとしてコミットしていくこと。つまり、哲学を学ばせるのではなく、「学ぶ」こと自体を哲学の立場から一緒に考えて、具体的な「学び」につなげていこうということだ。

前者のアプローチのほうが日本では目新しいが、私が研究者として、哲学と教育とをクロスオーバーさせために取り組んでいるのは後者のやり方である。

いま、国語教育には、何としてでも哲学が必要だ。それは、近頃はやりの「ロジカルシンキング」に関してだけではない。国語教育が育てるべき「リテラシー」の把握と具体化にあたって、哲学が大きな役割を果たすと考えている。

今の小学生にとって、「読む」対象は「文章」だけではない。チラシや絵、あるいはグラフなど、目に入る「情報」そのものすべてが「読む」ことのうちに含まれている。そして、「読み」の妥当性は、飛び込んでくる「情報」を自分がどう受け取り、根拠づけるかによって測られる。こうした「情報」との接し方や態度・能力を、幅広く「リテラシー」という。「読む」と言ったら「文章」を読むのであって、「筆者の言いたいこと」を正確に読み取らなければならないというような時代は、とうに過去のものなのだ。

「わたし」に与えられてくる「情報」をどう根拠づけながら、「私」の「読み」として構成するのか。これはもはや、「ことば」を超えた「認識」をめぐる問題だと言っていい。いや、むしろ「ことば」の内側にとどまっていては、「ことば」以外の「情報」とどう向き合うのかは考えられない。だから、「ことば」にならないものや、「ことば」を超えたものを扱えるパートナーが、国語教育には必要だ。

ここで哲学が出ていかなくて、誰が出ていくというのだろうか。哲学の本領は「論理」だけではない。「考える」ことを足場に、あらゆるものを概念として取り扱おうとするその営みに、哲学の哲学らしさがあると私は考えている。だからこそ、国語教育の課題を、哲学もまた同じように課題として引き受け、一緒に考えていける。そう私は信じている。

では、哲学と国語教育がタッグを組むと、どんな授業ができあがるのか?それは、この会社も一つの可能性を示してくれるだろうし、何より私の研究の先にその答え(の一つ)がある。

というわけで、皆さん、近い未来にお会いしましょう。

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