オンライン国語指導 アースリード (オンライン国語指導|アースリード の投稿者) http://aaas-lead.jp/author/aaasbridge/ 現役研究者が教えるオンライン個別指導塾 Fri, 30 Dec 2022 21:51:41 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.7 https://aaas-lead.jp/wp-content/uploads/2022/05/cropped-favicon_c-32x32.png オンライン国語指導 アースリード (オンライン国語指導|アースリード の投稿者) http://aaas-lead.jp/author/aaasbridge/ 32 32 読んで、書いて、話して(1)──読むことと理解することの距離(三浦隼暉) https://aaas-lead.jp/miura1229/ https://aaas-lead.jp/miura1229/#respond Fri, 30 Dec 2022 21:30:01 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1543

中学生の頃、自分は国語が得意だと思っていた。テストの成績も悪くなかったし、先生に作文を褒められたこともあったので、そのように思い込んでいたのだ。思い込むことは大切で、得意だと思えば楽しくもなる。それだけ勉強を頑張るし、成績も上がる。そうして、私は幸福な循環を味わっていたのである。

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当塾で講師を務める三浦隼暉さんより、国語の勉強方法に関するコラムを寄稿していただきました。

寄稿者

三浦隼暉(講師)

Profile

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専修大学、桜美林大学非常勤講師。The Five Books などのサービスで一般向けに哲学書の解説講義を行なってもいる。主な研究テーマは、17世紀の哲学者G. W. ライプニッツの哲学で、当時の哲学と生命思想との関わりを探っている。主な論文に「後期ライプニッツの有機体論」(『ライプニッツ研究』第7回研究奨励賞受賞)や「経験からの要求と実体的紐帯」(『哲学雑誌』)などがある。

本が読めないという衝撃

 中学生の頃、自分は国語が得意だと思っていた。テストの成績も悪くなかったし、先生に作文を褒められたこともあったので、そのように思い込んでいたのだ。思い込むことは大切で、得意だと思えば楽しくもなる。それだけ勉強を頑張るし、成績も上がる。そうして、私は幸福な循環を味わっていたのである。

 ところが、一冊の本との出会いが私の自信を打ち砕くこととなる。本を読むのが好きだった私は、近所のブックオフにしばしば足を運んでいた。「新書が読みやすいよ」と誰かに教えられて、いくらか読み漁っていたところで、丸山真男によって著された『日本の思想』という本に出会った。今でもまだ家の本棚に眠っていることを思い出して、この記事を書きながら、手元に持ってきてみた。十数年前に中古で買ったものにもかかわらず綺麗なままで、裏側には「¥350」と書かれた値札シールが貼られたままになっている。

 なぜこの本は綺麗なままなのか。答えは簡単で、あまり読んでいないからである。「少し難しい本を買っちゃった」くらいの気持ちで読み始めた当時の私は、冒頭の数ページを読み進めて、たちまちに冷や汗をかくことになる。今でも覚えているのだが、本当に焦ったのだ。目はたしかに文字を追っていて、読めない漢字も特にない。だが、意味がわからない。意味のわからない文章が次から次へと登場してきて、最終的に私はこの本を放り出してしまった。

 それまで、文字を読むことと、文章の意味を理解することの間には隔たりはないと思っていた。文字が読めれば意味もわかる。これを当然のことだと感じていたのだ。たしかに日常のなかで見かける多くの文字は、とくに何も考えずとも意味を理解できるし、そうでなければ困ってしまうだろう。だが、丸山真男の文章は、そんな私の常識に「ノン」を突きつけたのだった。

文字を超えて文字を理解すること

 今現在の私が改めて『日本の思想』を読んでみると、内容の分析はともかく、それなりに意味を理解することができる。当時のような冷や汗をかくこともない。例えば、冒頭近くの(中学生の私がこの辺りでつまずいたであろう)以下の文章なども「ふーん、なるほどねぇ」と余裕をもった心地で眺めることができる。

周知のように、宣長は日本の儒仏以前の「固有信仰」の思考と感覚を学問的に復元しようとしたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的な形にせよ、究極の絶対者というものは存在しない。和辻哲郎が分析しているように、日本神話においては祭られる神は同時に祭る神であるという性格をどこまで遡っても具えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる。

丸山真男『日本の思想』岩波書店, 1961, p. 20

 「人格神」「理」「形相」「絶対者」など日常生活ではほとんど聞くことない言葉が並んでいる。最近の私はすっかり哲学研究の世界に浸りきっているので、日々の読書の中でこれらの言葉に出会うことも珍しくはない。だが、当時の私は全くそうではなかった。もっと言えば、本居宣長や和辻哲郎などの名前もほとんど聞いたことがなかったし、「祭る」とか「祭られる」といった信仰に関する話題に触れる機会も皆無だったと思う。

 文字を読むことと、意味を理解することの間に隔たりがあるというのは、こうした事例からもよくわかるだろう。「人格神」を「じんかくしん」と声に出して(あるいは頭の中で音にして)読んでみることは、それほど難しいことではないだろう。だが、それだけでは文章の意味を理解することはできない。「人格神」という言葉に結び付けられる可能性がある、さまざまな他の言葉たち、例えば「自然神」や「意志」といった言葉を、「人格神」から想起する必要がある。著者が著作のうちで用いる言葉が、その著作内部で完結した意味をもつということはほとんどない。むしろ、その著作自体には書かれていない別の言葉たちとの連関のうちに置かれていることが多いのだ。そういった著作は、個々の著作の垣根を越えて張り巡らされた言葉の網のなかで意味を理解しなければ読み解けないのである。

 中学生の頃の私が『日本の思想』を読めずに挫折したのは、まさにこうした理由によるのだと思う。ほとんど聞いたことのない言葉や名前に翻弄され、それらの言葉がもつ意味のネットワークを掴みきれずに振り落とされてしまったのである。

意味を理解するために判断を下す

 もし現在の私が当時の自分にアドバイスをするとしたら、どのように声をかけるだろうか。そんなことを考えながら、懲りずに書い続けている新書を読んでいたら次のような文章に出会った。

いずれにせよ、他人が書いた文章を読むときには、その人がある語と別の語とをたとえば「同義語」のように理解しているのかどうかを、推測を交えてあなた自身が判定を下しながら読み解いていく作業が必要なわけです。

米山優『つながりの哲学的思考——自分の頭で考えるためのレッスン』筑摩書房, 2022, p. 55

 読むことは、与えられたものを受け取ること、受動的なことだと思われがちだ。だが、じつのところ書かれた文字と、その向こう側にある意味とを結びつけるのは、私たち自身の能動的な「判定」ないし判断である。さきほどの丸山真男の文章であれば、「人格神」や「形相」という言葉がどのようなネットワークのなかで用いられ、どのような重みを持たされているのか、読者自身がさまざまな可能性を比較したうえで決断を下さなければならない。

 こうした決断は文章に限ったことではない。ルネ・デカルトという哲学者が1641年に(初版を)出版した『省察』という著作の中で次のようなことを書いている(だいぶ脚色しているので、気になる人は「第二省察」の部分を確認してほしい)。街路に面した家のなかから窓を通して外を眺めている場面を思い浮かべてみよう。道を黒い影が通り過ぎていく。よくみれば、黒い帽子と外套をまとった何者かである。私たちはここで「ああ、人間か」と思うだろう。「だが」とデカルトは口を挟む。その帽子と外套の下は人間ではなくロボットかもしれないではないか、と。つまり、街路を移動する黒い帽子と外套の塊は人間に決まっているだろうという常識をもとに、私たちは推論し「それは人間である」と判断を下しているのである。

 文章を読むことも含め、何かを理解するということは、一定の判断の産物であるといえる。目の前に現れた黒い影は、本当はロボットなのかもしれない。だがそういった無数の可能性を一旦脇において、ひとつに絞ることで初めて理解を前に進めることができるのである。もちろん判断を誤ることもあるだろう。だが、文章相手ならいくらでも戻って読み直すことができる。

 文章に対して自ら判断を下さなければならないということは、自分のなかで判断のための準備をしておく必要があるということでもある。それまでのさまざまな経験、読んだり、書いたり、話したり、見たり、聞いたりしたことが、目の前の文章を読むための糧となるのだ。近道はないにせよ、テクニックはある。次回の記事では、読むためのテクニックをもう少し具体的に紹介するつもりである。

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問う人の繊細さに心を傾ける——総合的な探究の時間と問いの形(三浦隼暉) https://aaas-lead.jp/miura1202/ https://aaas-lead.jp/miura1202/#respond Fri, 02 Dec 2022 15:33:57 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1497

私が小学生のころ、「総合的な学習の時間」という授業があった。おそらく今でもあるのだろう。時期によって活動はさまざまだったが、あるときグループごとにテーマを決めて調べた内容を大きな模造紙にまとめる、というお題が与えられた。私は、友人たちと学校近くの森でキノコを採取し、それらの種類や生態を調べ、キノコ標本として模造紙に貼り付けることにしたのであった。

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当塾で講師を務める三浦隼暉さんより、探究学習に関するコラムを寄稿していただきました。

寄稿者

三浦隼暉(講師)

Profile

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専修大学、桜美林大学非常勤講師。The Five Books などのサービスで一般向けに哲学書の解説講義を行なってもいる。主な研究テーマは、17世紀の哲学者G. W. ライプニッツの哲学で、当時の哲学と生命思想との関わりを探っている。主な論文に「後期ライプニッツの有機体論」(『ライプニッツ研究』第7回研究奨励賞受賞)や「経験からの要求と実体的紐帯」(『哲学雑誌』)などがある。

ホコリタケの思い出

 私が小学生のころ、「総合的な学習の時間」という授業があった。おそらく今でもあるのだろう。時期によって活動はさまざまだったが、あるときグループごとにテーマを決めて調べた内容を大きな模造紙にまとめる、というお題が与えられた。私は、友人たちと学校近くの森でキノコを採取し、それらの種類や生態を調べ、キノコ標本として模造紙に貼り付けることにしたのであった。

 その日、私たちの教室にはテレビの取材が入ることになっていた。児童らの学習の様子を撮影して、あとで何かの番組に使ったのだろう。カメラがやって来たとき、私たちのグループは、「ホコリタケ」と呼ばれるとても面白いキノコを小さいジップロックに入れて、模造紙に貼り付けるところであった。ホコリタケは、頭のてっぺんに小さな穴があいていて、本体をつつくと、その穴から土埃のような胞子が飛び出す仕組みになっている愉快なキノコである。案の定、ジップロックの中はその名に恥じぬ「ホコリまみれ」の状態であった。そこにテレビ局のスタッフやカメラマンがやってきて、今でも覚えているのだが、恐ろしい一言を放ったのである。「この汚いキノコは何?」。

 放課後、「あの大人たちは何なんだ!?」と友人たちと憤りを分かち合ったのを覚えている。ホコリタケの入った小袋はたしかに茶色くなっていたし、そもそも美しいタイプのキノコではないのかもしれないが、それでも、それは立派に「ホコリまみれ」だった。決して「汚い」という言葉で表現されるべきものであるとは、私も友人たちも思っていなかった。もちろん、そのように見えたのは、自分たちでキノコを採取したという愛着ゆえだったのかもしれない。だが、大人たちの衝撃的な一言は、私にとって、自分たちで調べたり考えたりしたことを足蹴にされ憤りを感じた、初めての経験であった。

自分と不可分な問いを考える

 それから約20年後の2021年、私はとある高校の探究学習の現場に立ち会う機会を得ることになった。2022年度から、高等学校学習指導要領の改訂によって「総合的な探究の時間」という新たな科目が始まっている。それに先駆けて探究学習と同様の取り組みを行なっていた都内の高校にティーチング・アシスタントとして参与させてもらえることになったのである。

 私の仕事は、各生徒たちと面談して、テーマ決定の手伝いをするところから、問いや課題の形を整えたり、調べ方などをアドバイスしたり、最終的なレポートの添削をしたりと多岐にわたっていた。そのように生徒たちをみていると、問いや課題をうまく立てることができるかどうかが、探究学習にとって大きなウェイトを占めていることが分かる。こうした授業において「問い」は中心的な役割を果たすのである。じっさい、従来の「総合的な学習の時間」から新たに「総合的な探究の時間」へと科目が変更されるさいの重要なポイントのひとつに「問う人」と「問い」の関係がある。

総合的な学習の時間は、課題を解決することで自己の生き方を考えていく学びであるのに対して、総合的な探究の時間は、自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し、解決していくような学びを展開していく

『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説:総合的な探究の時間編』p. 8

「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」を発見して解決することこそが、探究学習における問い方であると示されている。こうした問いとの比較として、例えば、テレビのクイズ番組をみていて「バンコクの正式名称は何でしょう?」などと出題されているのを横目で眺めるときのことを思い浮かべればよいだろう。こうした問いは、その場限りでテレビを消したらオサラバできるような問いである。それに対して、いつまでも自分につきまとって離れない問いがあり、そうしたものが「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」と呼ばれているものだと考えることができる。

 だが、そのような問いはどのように見つけることができるのだろうか。これが正解なのかは分からないが、教室で必死に問いを考える生徒たちに対して、ティーチング・アシスタントとしての私は「日常のことを思い出してほしい」という言葉をかけていた。生きていれば色んな出来事に出会う。そのなかで、どうしても自分の人生から切り離すことができないような困難に出会うこともあるだろう。そこにこそ〈自己から切り離すことのできない問い〉の種がある。ある生徒は、どうして人は恐怖を感じてしまうのだろうか、という問いを立てていた。なぜその問いにしたのかを聞いてみると、大勢の前に立つと怖くてうまく話せなくなってしまう経験があったからだと答えてくれた。まさに本人の生き方と不可分な形で与えられた問いである。こうした問いは、現実に生きてみて、そのなかで避けようもなく直面してしまうものなのだろう。

問う人の繊細さ

 「問い」に心を傾ける人は繊細だ。それが自己から切り離せないような問いであるならば、なおさらである。小学校でホコリタケに向き合っていた私はとても繊細で、自分が採取したキノコや、調べたり考えたりしたことの全てを大切なものだと感じていた。現在の私も相変わらずで、哲学研究者として調べたり考えたりする日々を過ごすなかで生まれてきた言葉や成果に、愛着を抱いている(もちろん今では批判されることの大切さもよく承知しているし、誠実に受け入れる努力をしているが、それでも批判はいつだって苦しい)。

 「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」を考えるのが大切なのは、間違いないだろう。だが、それと同時に恐ろしいことでもある。河野哲也氏は、探究学習の目的について「探究は真正の学びでなければならず、社会から分離された単なる「教室での出来事」であってはなりません」(『『問う方法・考える方法:「探究型の学習」のために』第1章第4節)と述べていた。そうした「問い」を探究するなかで傷つくことがあれば、それもまた「教室での出来事」にとどまらないものとなる。それは、生徒の人生全体に関わるような問いかもしれないのである。

 探究学習に関わる全ての人が、問う人の繊細さに心を配る必要があるだろう。「問い」とは私たちを振り回すものであり、ときにこちらから自由に縁を切ることすら許されないものであったりする。自分にとっての問いの根が深ければ深いほど、問う人は逃れられずに繊細さを身に纏うことになる。教師やティーチング・アシスタントはもちろん、同級生たちでさえも、そのことは忘れてはならない。

参考文献

  • 河野哲也『問う方法・考える方法:「探究型の学習」のために』ちくまプリマー新書, 2021.
  • 文部科学省『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説:総合的な探究の時間編』, 2018. https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1407074.htm (2022年11月3日閲覧)

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生きがいがなければ生きていけないのか––––実存的欲求不満とショーペンハウアー(末田圭果) https://aaas-lead.jp/sueda_research/ https://aaas-lead.jp/sueda_research/#respond Mon, 21 Nov 2022 06:11:49 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1488

年来見つけられないものがある、あるいは見つけたと豪語できないものがある。それは「生きがい」だ。学部生の頃を含めると、相当長い時間研究に費やし、今となっては研究がライフワークと呼べるものになりつつある私が、このようにいうと奇異に映るだろうか。

表現を変えるなら、そもそも生きがいが何なのかが分からない、というべきか。

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当塾で講師を務める末田圭果さんより、研究内容の紹介文を寄稿していただきました。

寄稿者

末田 圭果(講師)

Profile

大阪大学大学院文学研究科 修士課程修了。修士(文学)。ドイツ哲学、主にドイツ観念論を専門とする。現在は同大学院にて、生命倫理の諸問題、特に終末期のケア、死生学に関心を寄せ取り組んでいる。研究の傍ら、塾講師、高校教員として教鞭を取ってきた。

年来見つけられないものがある、あるいは見つけたと豪語できないものがある。それは「生きがい」だ。学部生の頃を含めると、相当長い時間研究に費やし、今となっては研究がライフワークと呼べるものになりつつある私が、このようにいうと奇異に映るだろうか。

表現を変えるなら、そもそも生きがいが何なのかが分からない、というべきか。

私たちが、日常何気ない会話で口にする生きがいという言葉について、神谷美恵子は『生きがいについて』(1966)で、心理学者の観点から詳細に検討し、まとめている。

そこでは、何が生きがいであり得るかは規定できないとしながら、生きがい一般についてその特徴が挙げられる。曰く、もし心のなかにすべてを圧倒するような、強い、いきいきとしたよろこびが「腹の底から」、すなわち存在の根底から湧きあがったとしたら、これこそ生きがい感の最もそぼくな形のものと考えてよかろう、と。

私にとって大きな問題は、この「よろこび」という感情である。もちろん私は感情のない最近流行りのサイコパスだと言いたいのではない。一般に「よろこび」と呼び習わされている何かが自分に生じることがあるのは事実だが、その「よろこび」の程度としての大小や、それが何に紐づいているのかがよく分からないし、「腹の底から」なんて言われると尚更だ。あるいは私が感じるよろこびが、世間で言うところの「よろこび」と一致していることを何が担保してくれるのだろうか。この疑問にぶつかると、これが私の生きがいです、などと軽々しく口にできなくなってしまう。生きがいを持たずに生きている人はいないのだろか、私たちは生きがいなしでは生きられないのだろうか。

神谷によれば、生きがいは日本語特有の言葉らしい。西洋の言葉には、生きがいに相当する言葉はなく、生きがいを訳すには「価値」や「意味」という異なる用語を引かなければならないらしい。いずれにしても価値や意味と言われれば、「よろこび」という感情に担保される生きがいという言葉よりは手近なものに感じる。ドイツに留学中に、ヴィクトール・フランクルのDas Leiden am Sinnlosen Leben(直訳するなら『意味なき生の苦しみ』、邦訳は『生きがい喪失の悩み』)を手に取った。フランクルはロゴテラピーという精神療法を開発した、著名な精神科医だ。ユダヤ人であった彼は、第二次大戦中に強制収容所で壮絶な体験をしながら生還した稀有な人でもある。彼が強制収容所での体験を、精神科医という観点から記した『夜と霧』はご存知の方も多いと思う。『生きがい喪失の悩み』曰く、私たちは意味を求めて成就することを目指している、そしてその意味への意志をどうしても満たせず、実存的欲求不満、つまり自らの実存の無意味さの感情に陥る場合があり、それは神経症疾患を引き起こし得る、と。しかし私たちの生きる時代は、余暇が増大する時代に生きており、そして何かからの余暇もあれば、何かへの余暇もある、この余暇を埋める方法を知らない人がいる、自分が何をすべきで、何をしたいのか知らない人がいる、と。

フランクルが診断するように、私は生きがいが何かわからない。ただ自分の生きがいは何かを明確に意識しながら生きている人がどれくらいいるだろうか。意味を求めつつ、それを見つけることができないままに、生きている人は存外多いのではないか。少し長くなったが、以上が私の研究にまつわるぼんやりとした問題意識であった。

さて私の研究テーマは、この生きがいがどのようなものかを、自分なりに規定することだ。神谷によれば、生きがいは「よろこび」をもたらすものだった。しかしこの「よろこび」が何かよく分からないから、この説明は納得できない。フランクルによれば、生きがいは自らの存在が持つ、あるいは見出し、実現する意味ということになるが、そもそもここで言う「意味(Sinn)」が何かよく分からない。独和大辞典によれば、Sinnというドイツ語は、「なんらかのものに内在する目標、目的、価値」らしい。つまり存在が持つ意味とは、各人の内側から生じた目標、あるいは目的ということになる。しかしこの説明でも納得はできない。というのも自分の内側から生じた欲求という意味では、あらゆる行為が自らから生じた目標、あるいは目的の実現であるが、それでは全ての行為が生きがいということになる。あるいは外的な要因が動機となることで、私たちに意欲が生じ行為をしているとするなら、あらゆる意欲は外的要因にもたらされることになり、私たちの内側から生じたものなどないことになる。これでは生きがいは実現しない。

この生きがいへの疑問に、ショーペンハウアー哲学を用いて応えようというのが今の私の関心だ。ショーペンハウアーは世界を、意志と表象(私たちに認識されているもの)という道具立てで説明する。誤解を恐れず単純化すれば、曰く、私たちは「生きんとする意志」であり、私たちのあらゆる行いは生存の維持と種族の繁殖を目指している、と。私はこのショーペンハウアーによる世界の記述はある程度、私たちの住む世界を正確に説明できていると考えている。少なくとも私には、私たちの行為が「よろこび」や「生きる意味」を目指しているという説明よりも、私たちのあらゆる行為は自分の生存の維持を目指している、という説明の方が理解しやすい。しかしショーペンハウアーによる世界の記述に従えば、私たちの行為はすべて生存の維持という目標に還元されてしまい、到底生きがいなどを問題にできなそうに思われる。

しかしショーペンハウアーは、生きんとする意志が沈静化する状態である「意志の否定」について言及している。完全な意志の否定は、仏教で言う涅槃の状態であり、ある種の究極状態であり、凡人には到達できない。そもそも意志の否定自体の解釈が難しいが、私の解釈によれば、意志の否定には程度概念が持ち込める。つまり一般人である私たちにも開かれた、生きんとする意志が少し弱められた状態としての意志の否定があり得る。もっともこれは人生の中で、幾多の苦悩を経験することで開かれる一つの可能性でしかいないが。いずれにしても、この時私たちは生存を離れて何かを意欲し得る。そして生存を離れて意欲される何かは、つまり生存を離れても尚意欲されている何かは、自らの内から生じた意欲と呼べるのではないか。

これが生きがいに関する私なりの解答である。私たちは生きがいなしに、直接であれ間接であれ生存を意欲しながら生きている。しかし人生のふとした時に、生存を意欲することに疲れ果てたその瞬間に、生存を離れて何かを意欲し得るのであり、それを生きがいと呼ぶことは納得できる。生きていくのに生きがいはいらない。生きがいは、ただ不断に生存を意欲し続ける中で、それはある種の僥倖として出会い得る何かであるに過ぎない。

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「言葉にならない何か」からはじまる国語教育?──博士課程の院生室から(佐藤宗大) https://aaas-lead.jp/sato20221026/ https://aaas-lead.jp/sato20221026/#respond Wed, 26 Oct 2022 04:34:49 +0000 https://aaas-lead.jp/?p=1479

むかし、まだ哲学史の院生だったころ。当時の先輩に誘われて、倫理学の勉強会に参加していた。英語文献の読書会で、ろくすっぽ質問もできないまま修論執筆を言い訳に幽霊化していったのだけれど、そういうのに限って本題と関係ないことばかりが頭に残っていたりする。

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当塾で講師兼アドバイザーを務める佐藤宗大さんより、研究内容の紹介文を寄稿していただきました。

寄稿者

佐藤 宗大(アドバイザー)

Profile

京都大学大学院文学研究科西洋哲学史専修修了。修士(文学)。「哲学を社会の力に」との思いから、教育系ベンチャーに就職ののち独立し、個人事務所OFFICE Kを設立。国語を中心に、多くの生徒を志望校へと導く。現在は「哲学×国語教育」をテーマに、日本有数の教育研究拠点である広島大学で研究活動中。アースリードの指導方法に対して、専門的見地から助言を行う。

 むかし、まだ哲学史の院生だったころ。当時の先輩に誘われて、倫理学の勉強会に参加していた。英語文献の読書会で、ろくすっぽ質問もできないまま修論執筆を言い訳に幽霊化していったのだけれど、そういうのに限って本題と関係ないことばかりが頭に残っていたりする。

 ある日の研究会の雑談で、海外の大御所の話がネタになった。その先生は(検閲削除)で、その現場を見られてのたまったことには、「自分が倫理の外に立たなければ、倫理について考えることなんてできはしない」、と。

当然こんな与太話は半分以上フィクションだとは思うが(そうでなければたまったものではない)、この大御所の言葉が、妙に自分の中で残り続けている。とっさの一言にしては、ずいぶんと本質をついているように感じるからだ。

 国語といえば「言葉」に関する学習をするものだ、ということを疑う人は誰もいないだろう。『小学校学習指導要領(平成29年告示)』にも、国語化の目標は「言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を……育成することを目指す」(文部科学省 2018 p.28)ことだとバッチリ書いてある。だから私たちは国語の時間で漢字を習い、文章を書き、話し合いの仕方を学び、そしていろいろな文章を読む。

私の専門である国語教育(学)が対象にするのは、この「言葉」の学びとはどのようなものでありうるのかということだ。国語の時間でどのようなことが扱われなくてはならないか、そしてそれをどのように「面白く」授業にするか。いま国語教育(学)は、「言葉」の学びのあり方そのもの、いやそもそも「言葉」とは何かを問い直す局面に立っているとも言える。たとえば、近年では国語科で扱うべき知識・技能として、「情報の扱い方」に関する事項が増えた。そのため、グラフなどはもちろん、動画コンテンツなども当然のように国語の授業の素材となっている。文字で書かれたものを読み書きすることをベースにしていては、もう国語の授業なんてできない時代なのだ。

そうなったときに、自分には、例の大御所の言葉がふと思い出されるのだ。

国語教育について考えようとするのなら、私(たち)は「言葉」の外に立たなければならないのではないか?しかし、立てているんだろうか?そもそも、「言葉」の「外」ってなんなんだ??

国語教育学というのは、学問としてまだまだ若い。出発点をどこにするかにはいろいろな議論があるけれど、たとえば、哲学とか数学とか、そうした「老舗」に比べたらつい最近できたようなものと言っていい。だから、自分たちが問題だと思ったり課題だと感じたことを、さまざまな理論や言葉、そして「先生」としての実感から出た言葉などを柔軟に用いながら表現してきた。

柔軟というと聞こえはいいが、そこに学問としての国語教育学をめぐる深刻な問題がある(んじゃないかなあとぼんやり思っている)。

国語教育では、自分たちが考えようとする問題を記述するために、関連する学問領域の言葉や枠組みを参照するということがよくある。たとえば、文学研究理論だとか言語学とか、「言葉」に関わる学問である。しかし、どうしたって本職は国語教育だから、文学研究なり言語学なりが精密に分かるとも限らない。あくまで描きたいのは目の前の国語教育の問題だから、よその議論が結果的に「道具」として位置づきやすいことも事実である。そして、「国語」なんだから自分たちが問題にしているのは具体的な「言葉」の仕組みや性質だろうという意識も根強い。

と、なるとである。国語教育は、具体的な「言葉」の仕組みや性質を問題にしようとする意識に基づいて、「言葉」に関わる議論を形式的に援用しているんじゃないかという可能性が出てくる。そのとき、国語教育は結果的には「言葉」の内側にとどまっているのではないだろうか?もしそうだとしたら、私たちは「国語」の授業について考えていたとしても、「国語教育」について考えられているんだろうか……そんな残酷なことを思ってしまう。

もちろん、議論している当人にはそんなつもりはないだろうし、私自身含め、みんな「国語教育」について考えようとしているのは間違いない。ただ、人は「言葉」に左右されるから、いつの間にか借りてきた「言葉」に表現しようとしたメッセージが乗っ取られるということもあるだろう。それに、生きて動く教育や子どもの問題を描くのに、「外」に出て眺めるなどという悠長なことをしていられないのも事実だ。「言葉」の教育である国語教育にとって、「言葉」の「外」に立つというのはいろいろな意味で難しいのである。

 カント哲学という「外」の世界からやってきた私だから見えてくるものもあるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、日々研究を続けている。

国語教育がずっと扱ってきていながらなかなか扱いに困っているものに、「言葉にならない何か」がある。文学作品を読むというような状況に限らず、普段の生活でさえ、「うまく言えない」というような体験はよくあるだろう。そういった場面のいくつかは、表現能力とか語彙とかのレベルアップでカバーできるかもしれない。でも、表現能力や語彙を伸ばしていけば、どんなことでも言語化できるんだろうか?そもそも、「言葉」の学びとは、「言葉にならない何か」を「言葉」に表しきるということなんだろうか?

「言葉」とは本性的に「ボキャ貧」なのだ、と私は思っている。だからこそ「言葉」になったものを受け取るためには、その背後にある「伝えようとしたこと」をも捉えようとしなければならない。また、「言葉」の能力や知識を上げていったとて、全ての「言葉」が理解できるわけでもないし、全てを「言葉」で表現しきれるわけでもない。それはかえって、「言葉」によって伝えようとするものを、「言葉」で伝えきれる範囲に押しとどめてしまいかねない。

だから、「言葉」の学びには、「言葉にならない何か」が必要なのだ。そして、それを「言葉」にしようとするのではなく、むしろ「言葉」にできないということを積極的に受け止めていかなくてはならない。しかし、「言葉」の学びに「言葉にならない何か」を位置付けるというのは実に矛盾した課題でもある。少なくとも、国語教育の内部には、それを描ききるだけの「言葉」は十分に存在しない。

そこで哲学の登場である。哲学の話法というのは、言われたこと・書かれたことをデコードするのにやや手間がかかるが(1フレーズごとに重めのZIPファイルが仕込まれているようなもんだろうか)、「言葉にならない何か」を扱うことには向いているなあと感じる。たとえば、カントの「物自体(Ding an sich)」概念は、私たちの経験の向こうにある「何か」を記述する一つの方法だとも言える。この哲学の話法や視点を、国語教育の問題圏と接続できないか。それが私の今の研究である。

ただ、当然ながら、哲学と国語教育とでは「言葉」も学問の作法も違う。哲学のやり方で論じれば通じるというものでもないし、国語教育の流儀で研究活動をする中で「これでいいのか?」と慣れなさを感じることもある。しかし、それがうまく結合できなければ、自分の研究にとっても国語教育にとっても意味はないんだろうなとも感じる。先日、千葉で行われた全国学会で、はじめて小学校での授業実践を報告するタイプの発表を行った。これまではカントをベースに理論寄りの話をすることが多かったから、カントなしで実際の授業や子どもたちのことを話すなんて……と準備しながら不安の大きい学会だった。しかし、結果的には現職の先生や現場経験のある研究者の方から質問や好意的な意見をたくさんいただけて、少しは自分のなすべきことに近づいてこれただろうか、なんて思っている。

「外」から眺めつつ、しっかりと「中」にある切実な問題とも接続していく。そんな研究者にいつかなれたらいいいなと思いつつ、博士論文の執筆がなかなか進まない今日この頃である。

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哲学もずいぶん愛想がいい学問になったなあ、と感じることが多くなった。「世間と隔絶しひたすら思索に耽る」なんてイメージはとっくに時代遅れだ。大都市では街角のカフェで哲学対話のイベントが開かれていたり、あるいは企業のコンサルタントに哲学が関わっていたりする、という噂を耳にする。あまりやりすぎると「若者をたぶらかした」と死刑を宣告される羽目になるが(数千年前のアテナイという街にそういう人がいた。名をソクラテスという)、哲学は社会とつながっているし、私たちの生活の中にしれっと存在している。そんな世の中になりつつある。

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当塾で講師兼アドバイザーを務める佐藤宗大さんより、国語教育についてのコラムを寄稿していただきました。本コラムでは、哲学と国語教育の未来について、専門家の立場から考察していただいています。

寄稿者

佐藤 宗大(アドバイザー)

Profile

京都大学大学院文学研究科西洋哲学史専修修了。修士(文学)。「哲学を社会の力に」との思いから、教育系ベンチャーに就職ののち独立し、個人事務所OFFICE Kを設立。国語を中心に、多くの生徒を志望校へと導く。現在は「哲学×国語教育」をテーマに、日本有数の教育研究拠点である広島大学で研究活動中。アースリードの指導方法に対して、専門的見地から助言を行う。

哲学と教育との深い関係

哲学もずいぶん愛想がいい学問になったなあ、と感じることが多くなった。「世間と隔絶しひたすら思索に耽る」なんてイメージはとっくに時代遅れだ。大都市では街角のカフェで哲学対話のイベントが開かれていたり、あるいは企業のコンサルタントに哲学が関わっていたりする、という噂を耳にする。あまりやりすぎると「若者をたぶらかした」と死刑を宣告される羽目になるが(数千年前のアテナイという街にそういう人がいた。名をソクラテスという)、哲学は社会とつながっているし、私たちの生活の中にしれっと存在している。そんな世の中になりつつある。

そうした哲学と社会とのつながりの一つが「教育」だ。そもそも元をたどれば、教育と哲学とは兄弟のようなものだった。むしろ私などは、哲学が目指す世界や社会を具体的に実現していこうとする営みの一つが教育なのだ、と考えている。証拠というわけではないが、哲学者の中には、教育の方面でもその名がよく知られている人が何人もいる。たとえば、ルソーの『エミール』といえば教育学の古典中の古典だし、プラグマティズムの巨人デューイは、アメリカの教育学理論や、その影響を強く受けている日本の戦後教育を考える上で避けては通れない存在だ。こういうわけで、哲学と教育とは、学問レベルですでに密接な関わりがある。

哲学と教育とのビミョーな関係

とはいえ、哲学と教育とは同じではない(当たり前だ)。このへんは「学的アイデンティティ」とか「学問のアクチュアリティ」とか、いろいろ根深いというかめんどくさいというか、要はこの紙幅では触れられない問題があるのだが、まあそれはいい。シンプルに両者の関係について一番ネックなのは、それぞれが対象としている人間モデルの違いだ。

どういうことか。哲学が議論の対象にしているものは、それが「主体」であれ「社会」であれ「芸術」であれ、無意識に「大人」の世界であることが多い。しかし、教育(学)が取り組んでいるのは「子ども」の成長である(もちろん高等教育とか成人教育とかもあるが、それはとりあえず置いておく)。またまた当たり前の話だが、「大人」と「子ども」とは違う。したがって、「大人」の理性をベースにした哲学の理論や発想を、「子ども」の成長や発達に関してそのまま当てはめるわけにはいかない。乱暴に言えば、ここが哲学と教育(学)との分岐点である。先ほど名前の上がったルソーやデューイは、そもそもの関心に「子ども」が含まれていればこそ、教育(学)でも重要な役割を果たしている、と言えるのかもしれない。

つまり、「大人」の世界に哲学を売り込むことほど、教育に哲学をつなげていくことは簡単ではない。いや、「大人」が本当に哲学の想定するような「大人」なのか?と疑ってみると、実は「大人」たちにすら、哲学をつなげていくのは容易ではないのかもしれない。となると、ますます哲学は教育と手を携えていなかければいけない。ここで話は出発点に戻る。

さてさて、どうしたらいいのだろうか?

哲学と教育とのこれからの関係(?)

哲学と教育とを結びつける方法は、今のところ大きく2つある。

まずひとつは、哲学自体を教育すること。つまりは「哲学教育」である。最近は日本でも「子どものための哲学(Philosophy for Children, 通称P4C)」に関する研究や実践事例が増えてきており、Eテレでも研究者の監修のもと、「Q 〜こどものための哲学」という番組が制作されたりしている。すごい時代になったもんだ。

それからもうひとつは、教育という営みに哲学がパートナーとしてコミットしていくこと。つまり、哲学を学ばせるのではなく、「学ぶ」こと自体を哲学の立場から一緒に考えて、具体的な「学び」につなげていこうということだ。

前者のアプローチのほうが日本では目新しいが、私が研究者として、哲学と教育とをクロスオーバーさせために取り組んでいるのは後者のやり方である。

いま、国語教育には、何としてでも哲学が必要だ。それは、近頃はやりの「ロジカルシンキング」に関してだけではない。国語教育が育てるべき「リテラシー」の把握と具体化にあたって、哲学が大きな役割を果たすと考えている。

今の小学生にとって、「読む」対象は「文章」だけではない。チラシや絵、あるいはグラフなど、目に入る「情報」そのものすべてが「読む」ことのうちに含まれている。そして、「読み」の妥当性は、飛び込んでくる「情報」を自分がどう受け取り、根拠づけるかによって測られる。こうした「情報」との接し方や態度・能力を、幅広く「リテラシー」という。「読む」と言ったら「文章」を読むのであって、「筆者の言いたいこと」を正確に読み取らなければならないというような時代は、とうに過去のものなのだ。

「わたし」に与えられてくる「情報」をどう根拠づけながら、「私」の「読み」として構成するのか。これはもはや、「ことば」を超えた「認識」をめぐる問題だと言っていい。いや、むしろ「ことば」の内側にとどまっていては、「ことば」以外の「情報」とどう向き合うのかは考えられない。だから、「ことば」にならないものや、「ことば」を超えたものを扱えるパートナーが、国語教育には必要だ。

ここで哲学が出ていかなくて、誰が出ていくというのだろうか。哲学の本領は「論理」だけではない。「考える」ことを足場に、あらゆるものを概念として取り扱おうとするその営みに、哲学の哲学らしさがあると私は考えている。だからこそ、国語教育の課題を、哲学もまた同じように課題として引き受け、一緒に考えていける。そう私は信じている。

では、哲学と国語教育がタッグを組むと、どんな授業ができあがるのか?それは、この会社も一つの可能性を示してくれるだろうし、何より私の研究の先にその答え(の一つ)がある。

というわけで、皆さん、近い未来にお会いしましょう。

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